良寛さんとは
今から約200年前、倉敷市玉島の円通寺で、良寛(りょうかん)という僧が12年間修行を重ねました。
良寛さんは、多くの庶民や知識人等から敬われ、現在も良寛さんの生き方や作品が世に親しまれています。
良寛さんを学ぶと、あなたの悩みも解決するかも!?
良寛さんは厳しい修行の中にあって、「慈愛の心」を持って人と自然に接し、心の満たされた人生を楽しみました。
良寛と実際に交わった当時の人たちは、良寛さんが身近に居ることで、また、良寛さんの作品を通して、良寛さんの温かい心に触れ、心が和んだと言われています。
日本人が古より大切にしてきた「和みの心」、自然に順応し、他人や物を慈しむ温かい心を取り戻すきっかけを見つけてください。
※慈愛…親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い愛情。(【出典】『デジタル大辞泉』小学館より)
良寛さん年表
和暦(西暦) | 年齢 | 出来事 |
宝暦8(1758)年 | 1 | 越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)の名主・橘屋に生まれる。四男三女の長子。 |
安永4(1775)年 | 18 | 名主見習いをやめて、出雲崎町尼瀬の曹洞宗光照寺にて剃髪する。 |
安永8(1779)年 | 22 | 来越した国仙和尚に弟子入りして、倉敷市玉島の円通寺に赴き仏道修行に入る。 |
寛政3(1791)年 | 34 | 国仙和尚の寂後、諸国行脚の途に上る。 |
寛政8(1796)年 | 39 | 越後に帰郷し、以降、国上の五合庵等で一所不住の生活をする。 |
天保2(1831)年 | 74 | 1月6日、弟の由之や貞心尼に看取られて示寂。 新潟県長岡市和島の隆泉寺に葬られる。 |
良寛さんの「子供との接し方」から学ぶ
良寛さんは「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達を愛し、子供達とかくれんぼや手毬をついたりして、よく遊んだと言われています。
良寛さんの持っている頭陀袋(ずだぶくろ。僧侶が托鉢の際に使用する袋のこと)の中には、いつも4、5個の毬が入っていて、良寛さんの行く所には、いつも子供たちが現れ、手毬にかくれんぼ、かごめ遊びなどに興じていたと言われています。
名書家として知られた良寛さんは、高名な人物からの書の依頼は断る傾向がありましたが、子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書いたと言われています。
ある日、良寛さんは、子供達とかくれんぼをしていて、自分が隠れる順番になり、田んぼにうまく隠れました。しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は良寛さんだけを探し出せないまま家に帰ってしまいました。
翌朝早くにある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛さんが居たので驚いて問いただすと、良寛さんは「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったといいます。
このように、良寛さんに対する親しみ深い印象が現在まで伝えられています。
現代を生きる私たちも、良寛さんが子供の純真な心に接したように、寛容な気持ちをもって人と接することができれば、上司と部下の関係、親と子の関係、顧客と取引先の関係も良くなっていくのではないでしょうか。
良寛さんが泥棒に対してとった行動から学ぶ
良寛さんは、生涯寺を持たず、「五合庵」という、広さは六畳、入口はこもが下げられただけ、床は土間にむしろを敷いた粗末な家に住んでいました。
このような粗末な家にも関わらず、泥棒が入りました。しかし、盗むものが何もないので、仕方なしに、良寛さんの寝ている布団をとろうとしました。
良寛さんは知らないふりをして寝返りをうち、泥棒が取りやすいようにしてあげたと言われています。
その時に作った俳句が、「盗人に とり残されし 窓の月」です。
泥棒はもちろんやってはならないことです。
ただ、そんな犯罪人の泥棒に対してすら、寛容な態度を取ることができる、良寛さんの心の広さ、慈愛の心を、現代の私達は見習う必要があると考えます。
良寛さんの「自然との接し方」から学ぶ
タケノコの逸話
良寛さんが住む「五合庵」の脇の厠(かわや)に、竹の子が生えてきました。それが徐々に伸びて、先が屋根につかえそうになってきました。
かわいそうに思った良寛さんは、ろうそくに火をつけて、屋根に穴をあけてやろうとしたそうです。しかし、火が回って厠を全焼してしまいました。
田中の一本松
田んぼにある一本松を見て、その孤独さに同情した良寛さんの歌が残っています。
岩室の田中に立てる ひとつ松の木
けふ見れば しぐれの雨に 濡れつつ立てり
ひとつ松 人にありせば 笠貸さましを
蓑着せましを ひとつ松あわれ
良寛さんの自然に対する慈愛の心を、私生活や、人間関係の中に取り入れてみてはいかがでしょうか?
良寛さんに「イノベーション(革新)」を学ぶ
良寛さんは、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を民衆に示し、簡単な言葉や格言を使うことによって、一般庶民に解りやすく仏法を説きました。
その姿勢は、一般民衆だけでなく、様々な人々から共感や信頼を得ることにつながりました。
良寛さんは、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら、般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたそうです。
このように良寛さんは、従来の僧侶の形にとらわれないやり方で、共感を得ていきました。
高度成長期のやり方が通用しなくなって約30年、良寛さんの生き方は、現代のイノベーション、変化を起こす上で参考になるのではないでしょうか?